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備考欄のようなもの

主に、中国語圏の文学・音楽・映画等について記します。

『鸞鳳和鳴』と作詞家・李雋青

 今回は小ネタです。

 戦時上海~戦後香港で活躍した作曲家、梁楽音のことを調べていて思ったちょっとした感想。

 上海時代の梁楽音が作曲に関わった曲に、「紅歌女忙」がある(後述)。映画『鸞鳳和鳴』(1944)の挿入歌。この『鸞鳳和鳴』は、当時の上海を代表する歌手・周璇が出演した音楽映画で、日本支配下で撮られたという政治的背景もあって、現在でも簡単に見ることができない(私も未見の)映画だ。映画そのものを見ることは容易ではないが、梁楽音をきっかけにして、挿入歌を幾つかまとめて聞いてみた。その結果、この映画の作詞を一手に引き受けた李雋青(1897-1966) は、その活動のピークと呼ぶべき素晴らしい成果を残しているのではないか、と思った次第。

 まず、「討厭的早晨」(黎錦光作曲)。


周璇 - 討厭的早晨 - YouTube

ビバルディ『四季』を思わせるイントロからはじまるこの曲。だが、歌詞は中国の雑踏に暮らす庶民の感じる喧騒を描いたもの。そもそも「糞車」から始まる流行歌など、他に見たこともなく、普通ではない。だが、この歌はそれ以上に風刺に満ちていると言われる。「舊被面飄揚像國旗」(風に揺れるボロ布団は国旗のよう)、一説にはもとはボロ布団ではなく使い古しのオシメ(破尿布)だったといい、日本側からも国旗をオシメに喩えたとして問題とされたという(洪芳怡『天涯歌女―周璇與她的歌』133頁)。一方、「糞車」から始まる冒頭の歌詞、「糞車是我們的報曉雞」(汲み取り車は私らにとって夜明けを告げる鶏)の「報曉雞」は、なんと当時の日本の小磯内閣(「小磯」と「曉雞」は中国語で同音)を、風刺したものであり、米売の声は当時の専売制と密売への風刺、国旗のくだりは日の丸の強要への批判であるという(方翔『何處訴衷情』130-131頁)。この曲はもう一曲の挿入歌「可愛的早晨」(陳歌辛作曲)と併せて聴きたいところだがここでは省略。

 続いて、もっとすごいのが「不變的心」。


周璇 - 不變的心 - YouTube

 「あなたは私の魂/あなたは私の命/別れを経て私達はいっそうしっかり結ばれる/新たは星のように遠く蛍のように小さいけれど/明るさを少しでも感じられれば/すべてを変えることはできても/私の心は変えられない」
一応ラブソングの形を取りながらも、これを抗日のメッセージと受け取る人がいたのも当然だろう。作詞家の陳蝶衣はこの曲の抗日のメッセージに惹かれ作詞家を志したという(この映画の続篇的な『鳳凰于飛』は彼が作詞を担当したが、もしかすると李雋青が当局に目をつけられたことも影響?)
 実は映画中のこの曲の歌唱シーンはYoutubeにもアップされていて、バージョン違いが楽しめる。


周璇 不樂的心 ( 鸞鳳和鳴 movie ) 1944 - YouTube
0分12秒から映る指揮者、もしかして陳歌辛?(1分20秒辺りで黄河と交代するが)

もう一曲、この映画の抜粋をyoutubeで見ることができるのが、李厚襄作曲の「真善美』だ。


周璇 真善美 ( 鸞鳳和鳴 movie ) 1944. REPOST - YouTube

この時期、周璇もキャリアのピークに近く、美しい。真善美の代償は脳髄、心血、涙、狂気、沈酔、焦りだと歌い、真理の追求に代償が余儀なくされる現状批判とも受け止められる。

 さて、このように当時の日本の侵略や圧政を批判したとも受け取られるような歌詞を創作した李雋青だが、当時の流行歌の題名を散りばめたお遊びのような楽曲を創作している。それが冒頭で触れた「紅歌女忙」だ。


周璇 - 紅歌女忙 - YouTube

同曲は前半を梁楽音が、後半を嚴工上が作曲するという変わった作りだ。歌詞は「若い女性が流行歌を歌う、周璇の「瘋狂」(=「瘋狂世界」)、李香蘭の「売糖」(=「売糖歌」)」とある。周璇自身が「周璇」と唱うとは、松本伊代が「伊代はまだ十六だから」と歌うのに先んじること37年(だが、その「センチメンタル・ジャーニー」からすでに33年とは!)。だが。これは映画の挿入歌なので、映画の中のキャラクターが周璇のことを歌っているということになるのだろう。その他、周璇の「採檳榔」「送情郎」「郎是風兒姐是浪」、李麗華の「你也要回頭想」「晨光好」、姚莉の「賣相思」「送郎」、白虹の「鬧五更」などの題名が歌い込まれている。このような試みはおそらく上海の流行歌としては初めてではないだろうか。
 日本統治への批判・風刺、そして、このような歌詞に流行歌を織り込む遊び心など、李雋青のクリエイティビティが最も発揮されたのが、この『鸞鳳和鳴』ではないだろうか。

 

※(2014/5/9追記)上で紹介した、映画『鸞鳳和鳴』中の「不變的心」の(誤って「不樂的心」とされている)動画の12秒辺りで登場する指揮者、やはり作曲家の陳歌辛で間違いないようです。台湾大学の陳峙維さんを通じて、陳歌辛の子息・陳鋼氏に確認して頂きました。

 

周璇之歌 第一集 天涯歌女 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

周璇之歌 第一集 天涯歌女 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

 

 

 

周璇之歌 第二集 ?葉舞秋風 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

周璇之歌 第二集 ?葉舞秋風 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

 

 

 

周璇之歌 第三集 百花歌 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

周璇之歌 第三集 百花歌 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

 

 

 

周璇之歌 第四集 鍾山春 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

周璇之歌 第四集 鍾山春 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

 

 

 

周璇之歌 第五集 春花如錦 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

周璇之歌 第五集 春花如錦 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

 

 

 

周璇之歌 第六集 愛神的箭 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

周璇之歌 第六集 愛神的箭 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

 

 

 

周璇之歌 第七集 月下的祈禱 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

周璇之歌 第七集 月下的祈禱 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

 

 

 

周璇之歌 第八集 梅花曲 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

周璇之歌 第八集 梅花曲 (復?版) ~ 周璇 (香港盤)

 

 

 

蘭閨寂寂 蘭閨寂寂 (EMI 復黒版)(台湾盤)

蘭閨寂寂 蘭閨寂寂 (EMI 復黒版)(台湾盤)

 

 

雲南の戛洒で花街節を見る

雲南省新平県にはすでに数回調査に訪れている。今回は、201436日に新平の県城に入って見学し、37日に戛洒鎮に移動、78日の二日間を使って戛洒鎮周辺を調査した。

 今回が特殊だったのは、当地のタイ族(花腰)にとって年に一度の祭である花街節(赶花街とも)にちょうど出会ったことだ。我々が戛洒鎮に宿泊した7日から9日までがちょうど花街節にあたるとのことで、伝統的な歌垣や男女の愛のささやきが見られるかもしれない、と期待に胸が高鳴った。7日昼からすでに川沿いに屋台が立ち並んでいた。

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道路上の屋台はタイ族のきらびやかな衣装などが並び、川沿いの広場には射撃により景品を撃ち落とすゲーム、ラクダ、奇形人ショウ、お化け屋敷など奇をてらったものが立ち並ぶが、刺青のコーナーは、もしかするとタイ族の文身の伝統とどこかでつながっているのかもしれない。

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 夜八時からは、いよいよステージで歌舞ショウが始まった。我々は前方の位置を確保できたが、あっという間に人だかりができた。

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 ショウの内容は、伝統的と呼ぶには程遠く、「花街はあなたを歓迎します」という歌や、民族衣装に身をまとったタイ族の男女(女性中心)の踊り。途中機材トラブルで中断があったが、それを含めても小一時間ほどでショウは終了した。

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 翌日はガサ鎮から南へ一キロ行ったところにある大檳榔園を見学。

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といってもここ自体は大して見どころがなく、周りの二つのタイ族(観光村化している)と合わせた観光地として捉えたほうが良いだろう。大檳榔園の中にある幾つかの神樹は、彼らの村のものであった。

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爆竹の音に引き寄せられて辿り着いたのが、その二つの村の一つ、曼李(曼理)村だった。

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彼らによると、前日が花街節であり、この日は龍を祀る日とのこと。豚を解体して龍の木に祀る準備が進められていた。

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その祭祀までには時間がかかるということで、我々は村を後にして、ガサの宿場町としての伝統料理、黃牛湯鍋を食べに、一旦退去。

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2時に大檳榔園の龍の木を再訪したところ、すでに祭祀の儀礼は終わった後だった。例年はこの儀式は女性は参加できないとのことで、村中の男性が参加するとのことだったが、今年は偶然にも国際婦人デー(38)と重なったとのことで、年配の男性と、少し離れたところでその奥様連中が集っていた。我々一行(女性を含む)も参加を許され、いろいろ話を伺うことができた。

・昨日は村の連中も全員戛洒の祭りに行っていた。大檳榔園あたりでは花街節は行われていないが、近いうちに整備されて行われる見込み。

・神の木は、大豚、子豚、牛を捧げる木にそれぞれ分かれている。

文革中は龍の祭祀も、花街節も中断しており、80年頃復活した。

・祭祀を司るのは世襲ではなく、投票で決める。その家は準備が大変なので、余った食べ物はその家にあげることになっている。

 

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 さて、6時からは大檳榔園のステージで、ショウが始まった。ここは食事を取りながらショウを楽しむことができる。が、なんと出演者は昨晩の花街節の出演者とほぼ同じメンバーだった。内容も、観光客向けの近代化されたもの。

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 夜8時からは、彼らは戛洒に移動して、この日もステージを繰り広げていた。その近くではタイ族の踊りも見ることができた。だが、男女が縁を結ぶ伝統的花街は見られずじまい。

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 それでは、当地の男女は現在ではどのように相手を探しているのだろうか。もしかするとこのチラシがヒントになるかもしれない。

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花街節は観光客向けに姿を変え、彼らの縁結びも近代化したイベントに姿を変えた、ということだろうか。

梁楽音について(覚書)

以下は一ヶ月前にFacebookに限定公開で書いたメモ書きだが、どこに行ったかわからなくなりそうなので、ここに保存しておく。


 

しつこくも、服部良一が「中国の五人組」と呼んだ作曲家の一人、梁樂音について検索していて、googleブックスを検索すると、

上海百業人才小史 - 許晚成 - Google ブックス

を見つけた。

「275 ページ

上海百業人才小史 975 梅頌先年閱歲上海人明德女子中小學校長泰山路 683 號*梁樂音(覺民〉;律鈕歲廣東開平人聶會肆嫣於日本翀戶關西夜學校警察學校同文中華學校天健八里台商業割嗶校天津電話側?浦開學校日本大阪音樂學校 2 叭專科前任國民 ...」

 

中身をネット上で読むことはできないので、この文字化けしまくりの引用部分に頼ると、まず、梁樂音(覺民〉とあるのは、先日検索した全国報刊索引で、「梁樂音が戦後梁覺民と名を変えている」という記事を見つけたので、彼のことが記されていることは間違いない。

「廣東開平人」というのは

「中国の五人組」(服部良一)について - 備考欄のようなもの

に引用した『光藝』に掲載された記事が本籍を広東・順德とするのと微妙に異なっている。

 

「肆嫣於日本翀戶關西夜學校警察學校同文中華學校天健八里台商業割嗶校天津電話側?浦開學校日本大阪音樂學校」

の部分、推測するに

「肆業於日本神戶關西夜學校、警察學校、同文中華學校、天津八里台商業××[二文字不明] 校、天津電話側?[この三文字意味不明]南開學校、日本大阪音樂學校」

ではないか(ただし戦前には「警察学校」という名前の学校はない。同文中華學校というのは当時の神戸華僑同文学校、現在の神戸中華同文学校のことか)。

 

天津で学んだことも、『光藝』の記事に、「16歳で帰国し、天津の南開に学び、卒業後また日本に戻る」とあることにも合致する。とすると、注目したいのはその後ろの「日本大阪音樂學校」である。彼は現在の大阪音楽大学の前身、大阪音楽学校に学んだのではないか。大阪音大には博物館もあり、校史資料もあるようだ。問い合わせるか、訪ねると、何かわかるかも知れない。

 

一方、『上海百業人才小史』は日本では読めない。オンライン図書館の「超星」も久しぶりにチェックしたが所蔵なし、中国の古書サイトにもヒットせず。とりあえず、中国国家図書館、ハーバード・イェンチン図書館、コーネル大学図書館、等々にはあるようだ。

『FLY ME TO MINAMI~恋するミナミ』上映記念シンポジウム

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 ネット上では、まだどこにも紹介がないようなので、告知します。
 リム・カーワイ監督の映画『FLY ME TO MINAMI~恋するミナミ』が関西で一般公開される12月14日の前日に、以下の様なシンポジウムが行われます。私も話題提供者として登壇いたします。皆様のお越しをお待ちしています。(ポスター画像を挿入して再投稿しました。)


 

シンポジウム「混成アジア映画がつなぐ東アジア世界――『Fly Me to Minami~恋するミナミ』が照らす世界」

 

グローバル化の進展に伴い、自己実現の手段として国境を越える人がますます増えています。共同体の境界線は緩やかになり、社会は混成化しつつあります。こうした混成性に積極的に目を向け、そこに新たな価値が創出される契機を見出そうとする「混成アジア映画」が、東南アジアや日本の映画人を中心に制作され、世界的な評価を得ています。本シンポジウムでは、日本・大阪ミナミと韓国・ソウル、中国・香港とをつなぐ『Fly Me to Minami~恋するミナミ』を混成アジア映画と位置づけ、同作品の監督で東アジアと日本の関係を焦点に描くマレーシア出身のグローバル映像作家リム・カーワイ監督をお招きし、混成性を高めつつある東アジアの今日的な状況をとらえるとともに、同作品が混成性を通じて照らし出そうする東アジア世界に迫ります。

【日時】20131213日(金)18:3020:30

【会場】大阪大学中之島センター 講義室301

530-0005 大阪市北区中之島4-3-53

 http://www.onc.osaka-u.ac.jp/others/map/index.php

 【パネリスト】

 ◆ゲストスピーカー

  リム・カーワイ(『Fly Me to Minami~恋するミナミ』監督)

 ◆話題提供

  西村正男(関西学院大学

 「内なるアジア/外なるアジア――リム・カーワイ監督の無国籍映画から」 

  宮原暁(大阪大学

   「『恋するミナミ』を読む地図――人の混成と心の混成」

 【参加方法】入場無料、事前申し込み不要

 【問合せ先】マレーシア映画文化研究会 malaysianfilm[#]cias.kyoto-u.ac.jp

([#]を@に置き換えてください)

 【作品情報】『Fly Me to Minami〜恋するミナミ』

 監督・脚本・編集:リム・カーワイ/2013年/日本・シンガポール/103分/英語・中国語(広東語)・日本語・韓国語。

 http://flyme2minami.com

 ◆上映情報

 1214日より 大阪:シネ・ヌーヴォ、第七芸術劇場、神戸:元町映画館、

 京都:元・立誠小学校・特設シアター

 1221日より 東京:オーディトリウム渋谷

 1228日より 名古屋:シネマスコーレ

 ◆あらすじ

 香港のファッション雑誌の美人編集者・シェリーンは会社の新しい方針に従い、嫌々ながら年末に大阪へ出張し、繁華街のミナミを取材。カメラマンが急遽同行できなくなり、彼女は現地通訳・ナオミの弟であるタツヤを雇うことに。だがミナミは、一年でもっとも忙しい時期。シェリーンは、アマチュア同然のタツヤと一緒にドタバタと取材を敢行。やがてふたりには恋愛感情が芽生えはじめるが、ある誤解でその恋の行き先は思いがけない方向へ転換されていく。

 

一方、キャビンアテンダントをしながら、ソウルでセレクトショップを経営する女性・ソルア。洋服などを仕入れるため大阪を往復する彼女には、在日韓国人の恋人・シンスケがいる。家庭を持ち、コリアンタウンで韓流グッズ店を経営しているシンスケとは数年前、彼がソウルへ語学留学に来た際知り合った。シンスケが日本に帰ってからも、ふたりの恋は続いているが、これ以上、微妙な関係に耐えられないソルアはある決意をする。

 

それぞれの苦しい恋は果たしてどんな結末を迎えるのだろうか。

 

主催:マレーシア映画文化研究会、京都大学地域研究統合情報センター

 共催:大阪大学グローバルコラボレーションセンター、京都大学地域研究統合情報センター共同利用共同研究プロジェクト「映画に見る現代アジア社会の課題」

 


 

マジック&ロス [DVD]

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服部良一の香港ディスコグラフィ

 レコード会社三社合同企画である『服部良一 僕の音楽人生<完結編>』。その三社から発売されたCDをすべて購入すると、特典として「公式ガイドブック」がもらえる。「公式ガイドブック」には服部良一のディスコグラフィが掲載されているが、彼が香港で提供した楽曲のディスコグラフィのデータを私から提供されていただいた。服部が香港で活動した事実はある程度知られてはいるものの、ディスコグラフィがまとめられるのは今回が初めてのことである(今回はレコード化が確認されたもののみを掲載したが、これ以外にも映画で使われた楽曲は少なくない)。
 残念ながら、「公式ガイドブック」では原曲名など一部のデータは割愛されていたり、見づらいところがあるので、ここで少し補足をしておく次第である。(もちろんここではすべての楽曲データを記すことはしません。ぜひCDをお買い上げになって「公式ガイドブック」を入手してください。

銀座カンカン娘~僕の音楽人生<完結編>

銀座カンカン娘~僕の音楽人生<完結編>

服部良一カバーズ~僕の音楽人生<完結編>

服部良一カバーズ~僕の音楽人生<完結編>

※このページでは、映画の挿入歌である場合にはその旨明記した。映画の挿入歌はすべて「服部良一」クレジットであるが、それ以外の初期の楽曲では服部は筆名「夏端齢」を使用している。ディスコグラフィの葛蘭《心聲叮噹》以降はすべて「服部良一」クレジットとなる。但し韋秀嫻の二曲は、原盤不明につきクレジット不明。

 

・姚莉《喇叭傳情》

ディスコグラフィに掲載された1960年1月のSP、7インチ・シングルの他、1960年3月の百代7EPA143(7inch EP)、《喇叭傳情》百代CPA131(10inch LP)にも収める。原曲は「私のトランペット」。


 

・姚莉《留戀》

ディスコグラフィに掲載された1960年1月のSP、7インチ・シングルの他、1960年3月の百代7EPA143(7inch EP)、《喇叭傳情》百代CPA131(10inch LP)にも収める。原曲は「チャイナ・タンゴ」。

 

・靜婷《希望在明天》

ディスコグラフィに掲載された1960年3月のSP、7インチ・シングルの他、天使TAE120(7inch EP)にも収める。原曲は「明日の運命」。

 

・葛蘭《尋夢曲》

ディスコグラフィに掲載された1960年4月のSP、7インチ・シングルの他、《野玫瑰之戀》百代CPAX306(12inch LP)にも収める。原曲は「胸の振り子」。

 

・潘秀瓊《藍色的愛情》

ディスコグラフィに掲載されたSP、7インチ・シングルの他、《閉上眼睛想一想》百代CPA148(10inch LP)にも収める。

 

・葛蘭《情人的影子》

ディスコグラフィに掲載された7インチ・シングルの他、《野玫瑰之戀》百代CPAX306(12inch LP)にも収める。

 

 ・葛蘭《說不出的快活》

ディスコグラフィに掲載されたSP、7インチ・シングルの他、《野玫瑰之戀》百代CPAX306(12inch LP)にも収める。映画《野玫瑰之戀》(1960)挿入歌。原曲は「ジャジャムボ」。

 

・葛蘭《同情心》

ディスコグラフィに掲載されたSP、7インチ・シングルの他、《野玫瑰之戀》百代CPAX306(12inch LP)にも収める。映画《野玫瑰之戀》(1960)挿入歌。

 

・鄧白英《我愛青山道》

ディスコグラフィに掲載された7インチ・シングルの他、《搖船的姑娘》天使3AE116(10inch LP)にも収める。

 

・蓓蕾《花兒頭上插》

原曲は「支那むすめ」。

 

・葛蘭《蝴蝶夫人》

ディスコグラフィに掲載された7インチ・シングルの他、《野玫瑰之戀》百代CPAX306(12inch LP)にも収める。映画《野玫瑰之戀》(1960)挿入歌。原曲はプッチーニ蝶々夫人』の「ある晴れた日に」、服部は編曲のみの担当。

 

・葛蘭《卡門》

ディスコグラフィに掲載された7インチ・シングルの他、《野玫瑰之戀》百代CPAX306(12inch LP)にも収める。映画《野玫瑰之戀》(1960)挿入歌。原曲はGeorges Bizet「カルメン」、服部は編曲のみの担当。

 

・靜婷《心靈之歌》

原曲は「カスタネットタンゴ」。

 

・靜婷《已往的愛》

原曲は「雨の日暮れ」。

 

・潘秀瓊《夢去了》

ディスコグラフィに掲載された7インチ・シングルの他、《閉上眼睛想一想》百代CPA148(10inch LP)にも収める。原曲は「夢去りぬ」。

 

・潘秀瓊《寒雨曲》

ディスコグラフィに掲載された7インチ・シングルの他、《愛情像氣球》天使3AE117(10inch LP)にも収める。原曲は「雨のブルース」。

 

・姚莉《海茫茫》

原曲は「風は海から」。

 

・張露《白蘭之戀 》

服部は筆名「夏端齢」を使用。原曲は「いとしあの星」。

 

・潘秀瓊《你願意不願意》

原曲は「青い部屋」。

 

・葛蘭《心聲叮噹》

 

・葛蘭《月光戀》

 

・崔萍《重相逢》

原曲は「アリラン・ブルース」。

 

・葛蘭《教我如何不想她》

以下、ディスコグラフィの葛蘭《阿剌伯聖地》まではすべて映画《教我如何不想她》(1963)挿入歌(このページでは葛蘭《春風吹開我的心》までがそれにあたる)。この曲はディスコグラフィに掲載された12インチLPの他、《教我如何不想她》百代7EPA163(7inch EP)にも収める。原曲は趙元任作曲、服部は「改編」。

 

・葛蘭《我愛夏威夷》

 

・葛蘭《火辣辣》

 

・葛蘭《歡場天使》

 

・葛蘭《英雄美人》

 

・葛蘭《夢中相思》

ディスコグラフィに掲載された12インチLPの他、《教我如何不想她》百代7EPA163(7inch EP)にも収める。

 

・葛蘭《天下一家》

ディスコグラフィに掲載された12インチLPの他、《教我如何不想她》百代7EPA163(7inch EP)にも収める。

 

・葛蘭《春風吹開我的心》

ディスコグラフィに掲載された12インチLPの他、《教我如何不想她》百代7EPA163(7inch EP)にも収める。

 

・潘秀瓊《青山戀》

原曲は「青い山脈」。

 

・韋秀嫻《美麗的夜香港》

 原曲は「アデュー上海」。※この曲と次の曲のみ、原盤番号が判明しませんでした。識者のご教示を俟ちたい。

 

・韋秀嫻《水鄉之戀》

 

 ・靜婷《太陽月亮星星》

映画《香江花月夜》(1967)挿入歌。

 

・靜婷《火鳥》

映画《香江花月夜》(1967)挿入歌。

 

・靜婷・江宏《天堂夢鄉》

映画《香江花月夜》(1967)挿入歌。

 

 ・靜婷《JINGLE BELL 聖誕鈴》

映画《香江花月夜》(1967)挿入歌。

※これはレコードでは靜婷とクレジットされているが、映像では明らかに方逸華が歌っている。レコードの音源も改めて確認する必要がある。

 

 

・凌雲《我是個鼓手》

ディスコグラフィに掲載された12インチLPの他、《青春鼓王》天使AHZ-291(7inch Single)にも収める。映画《青春鼓王》(1967)挿入歌。

 

・凌雲《小星星》

ディスコグラフィに掲載された12インチLPの他、《青春鼓王》天使AHZ-291(7inch Single)にも収める。映画《青春鼓王》(1967)挿入歌。

 

・凌雲《生命與靈魂》

映画《青春鼓王》(1967)挿入歌。

 

靜婷・江宏《唐璜之歌》以下、ディスコクラフィ末尾まで映画《花月良宵》(1968)挿入歌。ディスコグラフィでは《戀之鳥》以下の5曲は、歌手名と作詞家名の切れ目が不明瞭になってしまっているが、歌手はすべて「靜婷・崔萍・蓓蕾・李芷苓」のクレジットである。作詞家名はレコードにはないが、香港電影資料館のサイトを参考に、蕭篁の名を補った。

「中国の五人組」(服部良一)について

 国民栄誉賞を受賞した作曲家・服部良一(1907-1993)が、戦時中上海で中国の音楽家たちと交流したことは、広く知られているだろう。しかし、彼が「中国の五人組」と呼んだ音楽家たちの顔ぶれやその詳細な経歴については、やや不可思議な点や不明なことが少なくない。このエントリーでは、この「中国の五人組」、特に梁楽音と陳歌辛について詳述することとする。

 さて、服部はその自伝『ぼくの音楽人生―エピソードでつづる和製ジャズ・ソング史』で、以下のように述べている。

 なお、昭和二十年前後の上海には、厳工上、陳華辛、梁楽音、黎錦光、姚敏という第一線の作曲家がいた。陳華辛は『薔薇処々開』、梁楽音は『売糖歌』、 姚敏は『ドラムソング』、黎錦光は『夜来香』というヒット曲をもっていた。

 ぼくはこの人たちを、有名なロシアの五人組やフランスの六人組の作曲家たちになぞらえて「中国の五人組」と呼んで新聞にも書き、親交を結んだ。このうちの『夜来香』の黎氏が昨年(昭和五十六年初夏)来日したので歓迎会を開いて互いに再会を喜び合った。ことに、もと李香蘭大鷹淑子さんがぼくのピアノで『夜来香』を歌ったシーンは、NHKがテレビで放映したので、ご覧いただいた方々も多かったであろう。*1

  この中には明らかな誤記がある。陳華辛とあるのは陳歌辛の誤りだ。実は同書のもととなった日本経済新聞の「私の履歴書」では、陳歌辛となっていたのだが、どういう訳か単行本としてまとめる際に陳華辛と誤ってしまったようだ。残念ながらこの誤記は、『服部良一の音楽王国』や上田賢一『上海ブギウギ1945―服部良一の冒険』でも踏襲されている。

  ついでながら、服部が姚敏の代表曲を『ドラムソング』としているのも気になる。これはいったい何の曲のことだろうか。推測するに、これは姚敏が上海時代ではなく、香港に移ってから作曲した「第二春」のことではないだろうか(同曲は英国舞台版『スージー・ウォンの世界』のなかでDing Dong Songとしてカバーされた)。

厳工上は五人組の一員か?

 さて、それ以外にも気になる点がある。ここで「中国の五人組」として名前が挙げられた人々の生没年を列挙してみる。

・厳工上(1872-1953)

・陳歌辛(1914-1961)

・梁楽音(1910-1989)

・黎錦光(1907-1993)

・姚敏(1917-1967)

こうして見ると、1907-1917年の間に生まれた他の4人に対し、厳工上の年齢がずば抜けて高いことがわかる。1945年の時点で、他の4人が二十代から三十代であるのに対し、厳工上は73歳(服部は黎錦光と同じ38歳)。これはいくらなんでもおかしいのではないだろうか。厳工上が誤記である可能性をさらに高くする証拠として、李香蘭こと山口淑子の自伝からの引用を見ていただきたい。黎錦光作曲の「夜来香」をモチーフとしたリサイタル「夜来香幻想曲」(陳歌辛・服部良一指揮、1945年5月)についてのくだりである。

 ――初日の夜の舞台が終わり、上気して楽屋に引きあげてくると、人ごみの中からヨボヨボの老人が杖をついて近づいてきた。事情を聞くと、「売夜来香」の作曲者だという。作者は行方不明と聞いていたが、本人があらわれたのである。黎錦光氏と服部さんは、老人としっかり手を握りあった。*2

 ここで言う「売夜来香」とは、正しい題名は「夜来香」であり、黎錦光作曲の同名曲「夜来香」にも影響を与えたとされ、女優・胡蝶が映画『夜来香』(1935年)の中で歌ったものだ。実はこの胡蝶版「夜来香」の作曲者こそ厳工上なのである。

もし彼が日頃から服部と交流していたならば、この時にいきなり楽屋へ近づいてくるということはありえなかっただろう。従って、厳工上は「中国の五人組」ではなかった可能性が高い。インターネット上を検索するだけでも中国語圏でも厳工上、陳歌辛、梁楽音、黎錦光、姚敏を「中国流行音楽の五人組」と呼ぶサイト・文章は数多く見られる。服部の勘違いにより、この表現はかなり定着してしまったのではないか。

(黎錦光は1990年のインタビューで、「香港の書物に厳工上、陳歌辛、梁楽音、姚敏とあなたを「中国流行音楽の五人組」と呼んでいるのを見ましたが、そのような呼び方は当時からあったのですか」という質問に対し、「当時はそのような呼び方はありませんでした」と答えている。*3

 それでは、服部は厳工上を誰と勘違いしたのだろうか。最も可能性が高いのが、彼の二人の息子、厳個凡(1902-1958)、厳折西(1909-1993)のいずれか、特に年齢の近い厳折西ではないだろうか。戦後の白光「如果没有你」などが特に有名だが、1920年代から明月社に加入、30年代から流行歌の作曲を手がけている。

梁楽音の経歴の謎

 他の音楽家たちの経歴は比較的はっきりしているのだが、この中でも最も経歴が謎に包まれているのが梁楽音である。日本で生まれた彼は、1940年代前半に突然中国の楽壇に登場し、それまでの経歴が不透明であった。だが、僅かな資料から彼の経歴をたどることができる。

 シンガポールの映画雑誌『光藝』に掲載された記事*4によると、本籍は広東・順德だが、両親が日本で商売をしており日本で少年時代を過ごした。16歳で帰国し、天津の南開(中学)に学び、卒業後また日本に戻る。日本にいる間はずっと音樂に興味を持ち、修養を積んだという。日中戦争が起こると第二の故郷日本を捨て祖国へ帰り、映画界で働くようになる。「博愛」や「売糖歌」の傑作によって実力を示した。香港に移住後も映画会社のために働いている。

 これだけでは彼の上海での役職がわからないが、実は彼は日本の支配下で統合された映画会社である、いわゆる中華電影、厳密には中華聯合製片股份有限公司(1942年4月成立)、そして合併により統合された中華聯合電影公司(1943年5月成立)の音楽組主任を務めていた。これ以前の上海の音楽界において無名だった彼がこのようなポストを得ることになったのは、日本で生まれ育った彼の日本語能力と無縁ではないだろう。そのようなこともあり、音楽家仲間からは不審の目で見られることもあっただろう。先にも引用した黎錦光のインタビューでは、次のように述べられている。

梁楽音は東京帝国大学の音楽科で学んだことがあると聞きました。私は彼との付き合いは少なく、彼は日本通でした。中華聯合製片有限公司が成立してから、彼は日本人の紹介でやって来て、音楽科の科長に就任しました。上海のあらゆる映画会社が華聯に統一されました。映画『万世流芳』は華聯が撮ったもので、梁楽音がこの映画のために作った「売糖歌」は李香蘭が歌ってからたいへん流行しました。彼はさらに「紅歌女忙」なども書いています。日本が投降した後彼は上海を離れ、香港へ行き、生命保険会社で重役をしています。彼は音楽創作の知識はいくらか持っていましたが、軽音楽については熟達していませんでした。*5

梁楽音が東京帝国大学に通っていたかどうか、あるいは香港で生命保険会社に関わったかどうかは、今のところ他の資料から確認することはできない。だが、少なくともここからは日本と関わりが深く、戦後香港へと脱出した梁楽音に対する黎錦光の冷ややかな視線は感じることができる。

 しかしながら、梁楽音が対日協力者であると断じるのはまだ早計である。実は、彼は国民党の地下工作者だったという証言があるのだ。方翔がその著書の中で紹介しているところによると、屠光啓が香港の『万象』誌に「梁樂音及其地下工作」という一文を記しているという(号数など不明)。その内容を孫引きして要約すると、以下のようになる。

 彼は日本語ができるため、日中双方から売国奴、スパイという嫌疑の眼差しを向けられる立場にあった。ある日、屠光啓は梁樂音から打ち明けられた。彼の父は日本人によって殺されたのだと。これは彼の立場の表明でもあった。戦争末期、梁楽音は屠に対し、日本がまもなく投降することを告げ、さらに「シーッ」と他人に漏らさないよう合図した。果たして翌日、日本の投降のニュースが伝わってきた。だが、それと同時に梁楽音は十日あまり姿を見せなくなる。みんなが心配していた頃、かれは軍服姿であらわれた。彼は淞滬警備司令部に属する少校で、表向きの仕事はカムフラージュに過ぎず、しかもそのことは中華電影のトップであった張善琨も知っていたのだという。*6

 さらに、黄仁によると、ソースは明らかではないものの、「中華電影の内部にはさらに重慶側の地下工作員も潜伏していた。例えば勝利後に身分を公開した音楽組長の梁楽音がそうであるが、川喜多[長政]も実情を多少は知っていたものの、できる限りそれを庇った。*7」とのことである。日本占領期上海の複雑な情勢のもと、梁楽音がその日本語能力と立場を利用しながら、国民党のために地下工作を行なっていた可能性は大いにあるだろう。

 香港移住後の梁楽音は、映画音楽を引き続き手がけ、また弟子をとって音楽を教えたりしていたが、意気消沈していたという。*8一方、香港の新聞を検索すると、彼は日本との交流を保ち、しばしば訪日している。1952年12月には映画音楽の担当および服部良一とのリサイタルを開催するため訪日したという。*9続いて、1961年には日劇「秋舞祭」(=秋の踊り?)の中国歌劇のパートの音楽担当のために来日している。*101967年には甥のハーモニカ演奏家・梁日昭を伴って来日して日本の音楽界を見学、これは創価学会系の音楽団体、民主音楽協会の招聘によるものだったという。*11

 この梁日昭(1922-1999)、作曲家・音楽評論家の梁宝耳、ドラマーの梁日修、歌手・声楽家の梁月玲ら兄妹は甥・姪にあたるという。また、香港から台湾に移って活躍した映画監督の梁哲夫(1920-1992)は従弟であり、梁楽音と梁哲夫は香港で『苦海鴛鴦』(1956)という広東語映画を共同脚本・共同監督しており、梁哲夫はその後台湾に渡って活躍する。この辺りの縁者に取材が出来れば、梁楽音の日本時代を含む詳しい足跡がわかるかもしれないのだが…。

陳歌辛の「愛国」の真偽をめぐって

 さて近年、陳歌辛について再評価が進んでいる。「玫瑰玫瑰我愛你」の欧米のカバーバージョンが大ヒットしたことが国内でも知られるようになり、息子の陳鋼氏が編著者を務める『玫瑰玫瑰我愛你:歌仙陳歌辛之歌』(上海辞書出版社、2002年)、『上海老歌名典』(上海辞書出版社、2002年、2007年新版)などでも陳歌辛の流行音楽史における地位が高く評価されている。

 一方、これに対して異議を唱えるのが1930年代~40年代流行歌歌詞集『解語花』シリーズなどの著書を持つ呉剣氏である。彼女は、『玫瑰玫瑰我愛你』『上海老歌名典』それぞれへの書評を通じて、陳歌辛、そして彼を高く評価する陳鋼氏への批判を展開する。また、その中国流行歌史に関する著書*12においても、陳歌辛への評価の低さは際立っている。その批判のポイントは多岐にわたるが、ここでは呉剣氏の言う「陳歌辛は愛国か」問題に絞って確認してみたい。

  彼女は、陳鋼氏が人々に父・陳歌辛が愛国的だったと信じこませようと宣伝している、として批判する。*13確かに、陳鋼氏は父がかつて愛国的な楽曲を作曲し、太平洋戦争の勃発後は日本軍に捕えられ、ジェスフィールド路76号の監獄へと送り込まれたことを述べるものの、太平洋戦争の時期の彼の具体的な活動については触れられることはない。そして彼が愛国的であったことばかりが強調されるのである。一方、呉剣氏は梁楽音と陳歌辛が日本占領下の映画楽曲の大半を手がけたことを指摘する。*14また陳歌辛が1943年中華電影に加入後、「王道楽土」を賛美する内容の歌詞を作詞していることを指摘する。彼女が例に挙げるのが以下の二曲である。

《蘇州之夜》(仁木他喜雄作曲)

夜深人靜時,長空月如鉤,鉤起游子鄉心,歸夢到蘇州。白蘆高長岸上,紅葉遍開山頭,月下洞庭泛舟,山河處處錦繡。

《姊妹進行曲》(梁楽音作曲)

我們眼中沒有黑暗,山河如錦,百花爭艷,姊妹們一同走出閨房,過去的別留戀,未來的正無限光明燦爛。

前者は映画『蘇州の夜』で李香蘭が歌ったもので、中国語版は周璇が吹き込んでいるが、レコードは極めて珍しい。

前者は蘇州の美しい風景を描いたものであり、「王道楽土」を賛美するとまで言えるかどうか。後者は美しい現在と未来を賛美するものであるが、出所不明。もし映画の中で使われた曲であるとすれば、映画のストーリーとリンクする歌詞であるかもしれず、映画で使われた楽曲ではないとしても、これだけで日本支配を肯定し賛美するものと断定するのは早計であるように思われる。

 呉剣氏はさらに、陳歌辛が「大東亜民族団結行進曲」を創作していること、神風特攻隊を称える「神鷲歌演奏会」において自らが作曲した神鷲讚美歌を指揮していることを指摘する。*15このような事実は、もはや言い逃れのできない対日協力の証拠であるかのように思われる。

 だが、呉剣氏も述べるように、彼は1943年ごろから中華電影の音楽科に参加しているのである。彼は中華電影の雑誌『新影壇』第4期(1943.2.5.)に掲載された座談会に、中聯音楽組同人の一員として(陳昌寿の名前で)参加している(他の出席者は梁楽音、陳白石、黄立德)。そこで彼は、『新影壇』の以前の二号は見ておらず、この号(おそらく1943.1.5.の第3期を指す)は今目にしたところだ、と述べている。*16してみると、彼が中聯(中華電影)に参加したのは、1943年初頭の可能性が高いと思われる。もともと抗日歌曲を創作し、日本側にも捕えられた彼が遅れて音楽組に参加したのは、もしかすると地下工作者だった(可能性が高い)梁楽音の説得によるものだったかもしれない。その際、梁は自らの身分を明かして、安心させたことも大いに有り得る。

 もし、陳歌辛自身が、祖国を裏切って完全に日本側に付いていると自覚していたならば、終戦後に次のような行動はとるだろうか。

  八月十五日、終戦の詔勅を陸軍報道部で聞いたのである。

 この日を境に、日中の立場が逆転した。[中略]

あすからどこへ引いてゆくかわからない身なのに、中国人の友だちから「オメデトウ」の電話がかかる。夜になると一升ビンを持って訪れる陳華辛(ママ)など中国の作曲家もいた。ぼくには、なぜ、めでたいのかわからなかったが、

「戦争がすめば音楽家同士は国境がないのだ。さあ、仲よくやりましょう」という温情に思わず頭が下がった。*17

日本側に付いた裏切り者である嫌疑を自覚していたならば、このように服部良一のもとに通うことで疑われることは避けるのではないだろうか。もしかすると、彼は梁楽音を通じて、国民党側などの了解を得ていたのかもしれない。そして、戦後直後には抗戦勝利を賛美する楽曲を手がけていくことになるのである。

 ただし、戦後の新聞記事には梁楽音や陳歌辛に対して批判的な論調である文章も見られる。1946年8月の『申報』の記事は、戦争中に日本に協力した音楽家の陳鶴がミス上海選挙の役員についていたものの、群衆により会場から追い出されたことを記した上で、次のように記す。

この事件から、私は「大東亜進行曲」の作曲者である梁逆楽音[「逆」は裏切り者であることを示す]と敵のでっち上げたニセ「自警団進行曲」の作曲者である陳歌辛のことも思い出した。彼らはどこにいるのだろう。*18

恐らく彼らはこの時期、すでに上海を後にして香港へと向かっていたと思われる(陳歌辛は後に上海に戻るものの)。仮に地下工作者であったとしても、戦争中に対日協力者としての姿が目立ちすぎると、そのまま上海に居続けるのは困難だったのだろうか。

 陳歌辛の経歴や彼の手がけた抗日歌曲についても言及したかったが、それらについては、また別の形で発表することとしたい。

ぼくの音楽人生―エピソードでつづる和製ジャズ・ソング史

ぼくの音楽人生―エピソードでつづる和製ジャズ・ソング史

上海ブギウギ1945―服部良一の冒険

上海ブギウギ1945―服部良一の冒険

 

*1:服部良一『ぼくの音楽人生―エピソードでつづる和製ジャズ・ソング史』日本文芸社、1982年、212頁。

*2:山口淑子・藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮文庫、1990年、327頁。

*3:梁茂春《黎锦光采访记录及相关说明》《天津音乐学院学报(天籁)》2013年第1期,68页。

*4:「作曲家梁楽音」(『光藝電影画報』第52期, 1952.8.1.)なお、記事の内容はこちらでも読める。

*5:前掲梁茂春、67頁。

*6:方翔《何處訴衷情》台北:漢光文化,1991,147-148頁。

*7:黃仁《日本電影在臺灣》台北:秀威資訊,2008年,274頁。

*8:慎芝,關華石手稿原著《歌壇春秋》國立台灣大學圖書館,330頁。なお、これは1958年10月16日に台湾で放送されたラジオ番組の内容である。

*9:《梁樂音昨赴日》,《香港工商日報》 1952年12月22日第6版。ただし、映画は東宝製作の《百寶朝鳳》、プロデューサーは張善琨、主演は李香蘭とされているがこのようなフィルムは実在しない。東宝と張善琨の間で計画された幻の合作映画だろうか。服部とのリサイタルについても不詳。

*10:《名音樂家梁樂音赴日》,《香港工商日報》1961年6月10日第7版。

*11:《梁日昭梁樂音應邀連袂訪日》,《香港工商日報》1967年8月24日第7版。《梁樂音梁日昭聯飛大阪考察音樂》,《華僑日報》1967年8月25日第12版。

*12:吴剑《何日君再来:流行歌曲沧桑史话1927-1949》北方文艺出版社,2010年。

*13:吴剑《怎样认识和评价陈歌辛》,《博览群书》2010年第12期,49頁。

*14:吴剑《选编老歌要对历史负责:评《上海老歌名典》(上)》,《博览群书》2008年第6期,73頁。

*15:吴剑《怎样认识和评价陈歌辛》(前掲),48-49頁。

*16:《關於電影音樂諸問題:與中聯音樂組同人的會談》,《新影壇》第4期,46-47頁。

*17:服部良一『ぼくの音楽人生』(前掲)215-216頁。

*18:西廷《關于陳鶴》,《申報》1946年8月23日第12版。

【映画】シャングリラ

映画

『シャングリラ』2008・台湾・中国/台湾製DVD/鑑賞日 2013.03.30./星4

 台湾製DVDで鑑賞。日本では新宿K's cinemaで2010年に公開された、2008年の台湾・中国合作映画。頼声川の表演工作坊で女優・演出で活躍している丁乃箏が、自ら監督して映画化したもの。これは1970年代生まれの中国、台湾、香港の女性監督10人が、雲南を舞台に映画を撮るシリーズ“雲南影響”の第三作として撮られたようだが、その後このシリーズがどうなっているのか、はっきりしない。

 それはともかく、台湾の脚本、監督であるため、ここで描写されるのは台湾人の目線による雲南・シャングリラである。我が子を事故で失った台湾人女性が、雲南への旅を通じて自己を見つめなおす、というもの。事故の真相や、ヒロインの後を追って台湾から雲南へと渡る男の正体など、ミステリー仕立てでもある。風景も美しく、まずまずの良作と感じた。なおここで登場する少数民族はチベット族である。

 ヒロインを演じるのは『ラスト・コーション』でヒロインの仲間を演じ、昨年の大阪アジアン映画祭で上映された『父の子守歌』でもヒロインを演じた朱芷瑩。台湾人女性がタクシーの運転手に「師傅」と呼びかけたり、「普通話」という単語を使ったり、などの場面は台湾人にとっては大陸旅行気分を醸しだす働きもあるのかもしれない。

 台湾の場面で、子供と一緒に團伊玖磨作曲の「ぞうさん」(中国語題「大象」)を唱うのが個人的には気になった。台湾でもこの歌が親しまれていたとは。