備考欄のようなもの

主に、中国語圏の文学・音楽・映画等について記します。

1955年、台湾の声楽家・申学庸が日本で出演した軽歌劇と映画

申学庸(1929- )は、中国四川で生まれ育ち、台湾に移住して成功を収めた声楽家、音楽教育者である。1993年から翌年にかけて行政院文化建設委員会(現在は文化部に改組)の主任委員として入閣するなど要職を務め、台湾では知らぬ人もいないほど著名な音楽家だ。

だが、その彼女が日本に居住していた1955年に出演した軽歌劇『戀歌』と香港映画『花花世界』についてはほとんど知られていない*1

この記事では、それらについて調査してわかったことを紹介したい。

 申学庸の略歴と日本

申学庸は1944年、「重慶師範」(中央大学師範学院のことか)の音楽科に入学、1946年の同校の南京復員後は成都芸術専科学校へと移り、蔡紹序や郎毓秀に声楽を習う。1949年、同校を卒業後、20歳で国民党少校参謀の郭錚と結婚し、台湾に移る。

郭錚は言語に秀でた人だったらしく、通訳として1950年に韓国・板門店に、1951年には東京に配属される。その夫を追って、申学庸は1951年に長男を連れて東京へ移住、東京藝術大学に入学するとともに、戦中から日本に住んでいたイタリア人声楽家・ディナ・ノタルジャコモに師事。

1953年、横浜や東京でリサイタルを開催したあと、7月に師に従ってイタリアへと向かい、同地で声楽を学ぶが、1954年5月には夫や息子の待つ東京へと戻っている。翌1955年7月には台湾に帰りリサイタルなどを開催、9月に日本に戻るも、12月には再度台湾に戻り、台湾で声楽家・音楽教育者として活動していくことになる。

この記事で記すのは、彼女が1955年、台湾に一時帰国する前に出演した軽歌劇『戀歌』と、おそらく台湾から日本に戻った後の同年9月から12月の間に出演した香港映画『花花世界』についてである。

 葛英という男

ここで、一旦脱線して『戀歌』でもう一人の主役を演じた葛英という人物についておさえておきたい。

葛英は今では完全に忘れ去られた存在だが、この当時は台湾の新聞にも度々その名前が登場するなど、在日華人声楽家として名声を博していた。

1953年1月の台湾の新聞記事に「上海で生まれ育った三十四歲の中国人歌唱家」とあるので、これが満年齢だとすると1918年頃の生まれであろうか。

上海で生まれ育った、というところに注目し、上海の新聞『申報』を検索すると、以下のようなことがわかる。

  • 1936年5月から8月にかけて「葛英」という歌手が少なくとも23回ラジオ出演している。曲目については、作者がはっきりしないものも多いが、最後の4回については「大路」(=「大路歌」)「塞外村女」「告別南洋」「開路先鋒」と、すべて聶耳(中国国歌「義勇軍進行曲」の作曲者)の作曲した曲を歌っていることは興味深い。これらのラジオ出演はすべて「大都会社」の一員としてのもの。
  • 1936年9月4日の紙面に上海美術専科学校の合格者名簿が掲載されているが、その音楽系の新入生として「葛英」の名前がある。
  • 1948年3月29日の記事にはこのように書かれている。「歌唱家葛英は以前に志願して新六軍に加わり東北で仕事をしていた際、夏寿芝さんと潘陽で結婚し、そのため除隊して上海に帰り、本日披露宴を行う。」

 これらがすべて同一人物だとすると、初級中学などを卒業した葛英は1936年の夏休み前後にラジオで歌を歌い、同年秋より上海美術専科学校で音楽を学ぶ。その後、歌唱家と呼ばれるまでになっていた彼は、国民党の新六軍に加入するも結婚・除隊して上海に戻った、というライフヒストリーが浮かび上がる。

この1936年と1948年の間に彼が何をしていたのだろうか。『聯合報』1954年4月11日付の記事では、上海の国立音楽専科学校(上海美術専科学校の誤り?)を卒業後、1943年に日本に渡り上野の東京音楽学校に入学したという。日中戦争末期に中国人が日本に留学するというのはかなり珍しいと思われる。だが、日本の雑誌『栄養と料理』第19巻第10号(1953年10月)の「中国のおそうざい 葛英」という文章(→リンク)にも以下のように記されている。

葛英さんは台北放送局のテナー歌手ですが、日本がたいへんおすきで十年ぶりに昨年来日されました。上野の旧音楽学校御出身で、故三浦環、木下保氏に師事されて、文化放送やその他いろいろな方面に活躍されていますが、上海で仕こまれたお料理がお上手で声楽の教授とともに、お料理を教えるのにお忙がしいようです。

してみると、1943年当時日本にいたことや旧東京音楽学校で学んだことは確かであるようだ。

 

1950年代初めには、葛英は台湾に定住していた。国共内戦の結果、国民党の軍隊にいた彼は、台湾への移住を選んだ(あるいは余儀なくされた)のだろう。政府の文化団体である中国文化協会のイベントで1951年9月15日、10月4日、10月10日に葛英はテノール独唱を披露している。また、同年11月28日には中国実験歌劇団を結成して団長に就任している。1952年2月には「軍中藝術工作總隊」に参加して台湾各地の軍隊を廻ったり、同3月26日には「広播節」(放送記念日)の祝賀大会で四重唱を披露したり、同11月には社会教育活動週間において独唱を披露したり、など活躍が報じられている。

その彼が日本に登場するのが1953年初めなのである。先の『聯合報』1954年4月11日付の記事には彼が50年代に来日した理由として、「横浜中華学校」に招聘されたことが記されている。『聯合報』は1953年1月12日付けの記事では、『東京日日新聞』の記事を転載する形で、葛英が日本のラジオ番組で中国の歌曲を紹介することを報じている。『聯合報』の同年3月22日の記事でも、彼が2月より文化放送で(台湾を含む)中国の歌曲を彼が紹介して歓迎されていることが報じられる。さらに、1954年4月17日にはソロリサイタルも開催する。

そして、いよいよ『戀歌』公演が行われた1955年を迎える。葛英は、この年2月に東京藝術大学音楽学部を卒業したと報じられている(『聯合報』1955年2月4日)。来日後二年ほどしか経っていないようにも思えるが、戦中に東京音楽学校に在籍していたためだろうか。また、この頃彼は中華国楽会の駐日本代表にも就任している。

4月4日と5日に『戀歌』公演が行われたあと(詳細は後述する)、同年8月には東京電視廣播電台(ラジオ東京テレビ=後のTBS東京放送のことと思われる)の招きにより、「音樂世界之旅」というテレビ番組に出演、当時日本にいた香港の女優・蘇珊*2とともに歌劇「孟姜女」を披露している。

葛英はシンガポールの音楽界に招かれ、1955年秋から東南アジア視察に訪れる予定であることが『聯合報』の記事から伺えるが、その後の消息は全く途絶えてしまう。日本や台湾に帰ることはなかったのだろうか。

軽歌劇『戀歌』

さて、この葛英と申学庸が舞台で共演したのが『戀歌』である。先にも引用した『聯合報』1955年2月4日の記事は、この『戀歌』が歌劇研究所という団体の企画であることを記している。この歌劇研究所とは、日本華僑聯合総会の会長だった林以文と、当時日本に居住していた映画スターの白光が設立したもので、林が理事長、白光が理事を務めたという。この記事からは「東京維迪奧音樂廳」(新宿オデヲン座系列のオデヲンホールだろうか)が会場として予定され、また渡邊浦人が編曲と指揮として予定されていたことがわかる。だが、実際には保田正が編曲と指揮を担当、また会場は東京ヴィデオ・ホールに変更されている。

だが、何と言ってもこの公演で特筆すべきは、白光が自ら「導演」(演出)を担当したことであろう。

白光と申学庸は、『戀歌』のポスターの前でツーショット写真を残している(『臺灣音樂羣像資料庫』の「申學庸」の項に掲載されている、その写真は→こちら)。

こちらには、鮮度が落ちるが同じ写真が使われた『聯合報』1955年4月4日の記事を貼り付けておく。

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中央社電のこの記事は、同日の『中央日報』にもほぼ同じ内容が掲載されている。 この記事にもあるように、葛英は「葛英歌劇団」を組織していて、この『戀歌』は彼らの公演として位置づけられている。記事によれば、この「葛英歌劇団」も林以文の支援により設立されたようであり、もしかすると先の「歌劇研究所」と同一のもの(あるいは改名したもの)なのかもしれない。

ツーショット写真には「演出 白光」の下に「保田正」の名があり、その下に「久子」と見えるのはおそらく2月4日の記事で舞踊指導として名前が挙げられていた鳳久子であろう。石井漠門下の舞踊家だ。申学庸は、夫の姓を冠した「郭申学庸」として葛英よりも上にクレジットされている。

脚本が誰の手によるものかはわからないが、記事に記されたストーリーは以下の通り。

青年詩人が月夜に台湾の村を散歩し、センチメンタルになった彼は木のもとで眠りにつき、幼時のガールフレンドとの甘い生活を夢見る。翌朝農民の歌声に目を覚ますと、ガールフレンドもその農民の中にいた。彼女の家族は離散し、彼女は苦難を経てこの自由な宝島(台湾)へとたどり着いたのだという。そして農民の祝賀の声の中、皆で「阿里山姑娘」(=「高山青」)を合唱して幕が下りる。

 おそらく葛英が青年詩人を演じ、申学庸がガールフレンドを演じたのだろう。

さて、先の『臺灣音樂羣像資料庫』の「申學庸」の項には、この『戀歌』上演中のスナップ写真も掲載されている→こちら

また、この公演には服部良一も駆けつけ、終演後彼女と一緒に写真を撮っている→こちら。服部の左側に立っている青年が葛英であろうか。服部は、申学庸の姿と歌声に何を思ったことだろうか。李香蘭の姿を重ねて見たかもしれない、と考えるのは邪推にすぎるだろうか。

『花花世界』

 『花花世界』は日本で撮影された香港映画であり、当時としては珍しくカラー撮影されている。香港では1956年3月3日より、台湾では同年6月に公開された。申学庸も出演して「我住長江頭」と「踏雪尋梅」の二曲を披露している。では、このフィルムはどのような映画だったのだろうか。

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この広告には「東宝歌舞団のストリップ」「女相撲」「電話女郎(=コールガール?)」「東京ナイトクラブの機械舞場」など、いささかセンセーショナルな文言が並んではいるが、グランド・レヴュー形式の映画であったことが推測できる。「東宝歌舞団」というのは、当時日劇ダンシングチーム(NDT)を中心とする東宝系舞台俳優・ダンサーが海外公演をする際に使用していた名称であり、この映画のキャストの多くもそのような人々によって担われていたと思われる。

香港側のスタッフ・キャストとしてクレジットされているのは、姜南(脚本、出演)、その妻の高宝樹(出演)、そして馬力(出演)である。そして、「導演、 監製」(監督・プロデュース)は、張国利という人物である。

この張国利は、浙江財閥の巨頭にして中華民国中央銀行総裁などを歴任した張公権(嘉璈)の子息。若くして日本留学して医学を学び、戦後も長く日本で暮らした医師である(癌の特効薬を開発したりもしている)。この映画以外にも映画界との関わりが散見される興味深い人物ではあるが、彼について今後の調査課題としたい。

さて、レビュー形式のこの映画ではあるが、一応ストーリーもあったようで、香港『華僑日報』1956年3月3日の記事にその梗概が記されている。

劇団オーナーの息子・孫世凱は女好きのだらしない性格。所用のある父に劇団のリハーサルの監督を命じられるも、劇場に行かずにナイトクラブで楽しむ。そこでも騒動が起きるが、やがて父の命令を思い出し、劇場に駆けつけるとリハーサルが一つ一つ進んでいく。「浴場舞」を見た彼は女性の楽屋に覗いて女性たちに見つかり大騒ぎ。やがてステージの開幕を迎える。女性たちに囲まれて殴られる孫世凱は演出家の趙に助けを求めるが、趙は相手にしない。やがてステージではルンバダンスに始まり、さまざまな素晴らしいショウが展開されていく。

台湾の新聞にも映画評が掲載されている。そのうちの一つは日本のミュージカル・ショウの成熟を褒め称えるもの(『聯合報』1956年6月6日)であり、もう一つはむりやりにプロットをでっち上げなくてもよかったのでは、とするもの(『中央日報』1956年6月10日)である。後者では、申学庸の歌の部分の録音がよくないのが残念だという指摘もある。

『臺灣音樂羣像資料庫』の「申學庸」の項には、申学庸と高宝樹が写った写真(→こちら)、映画のシーンの写真(→こちら、→こちら)もある。現在では映像が失われていて見ることができないのは残念だ。

まとめ

この記事では、1955年の日本で中国人によって演じられた軽歌劇と映画を紹介した。これらに関わった人たちそれぞれの人生を追うだけでも一冊の本になりそうである。1950年代半ばは、日本の技術を学ぶために香港映画の日本ロケが盛んに行われていた。また日本に居住したスター(白光)、夫の仕事の関係で日本に住んだ声楽家(申学庸)、日本で医者として活動する傍ら映画産業に進出した華人(張国利)、芸能産業にも進出した華僑界の大物(林以文)など、様々なプレイヤーが交錯するのも興味深い。

これらの登場人物のうち、白光と申学庸はやがて日本を去り、葛英も表舞台から姿を消す。やがて、日本のショウビズ界における華僑の存在も、あまり目立たないものになっていく。日本と中国語圏の映画交流、音楽交流は別の形で続いていくのではあるが。

ここで取り上げた歌劇『戀歌』も、映画『花花世界』も、現在では全く記憶されていない。だが、日本と華人の音楽界、ショウビズ界の交流の一コマとして、記憶されてしかるべきであろう。

 

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*1:ウェブサイト『臺灣音樂羣像資料庫』の「申學庸」の項の「大事記年表」では、これらは1954年とされているが、実際には1955年の出演である(『花花世界』の公開は1956年)。

*2:蘇珊は香港の女優だが詳細不明。1956年の『萬花獻媚』、1957年の『銀海仙歌處處聞』、1959年の『淘氣千金』などの香港映画に出演している。張善琨の新華公司が日本ロケを行って製作した『萬花獻媚』の撮影のために日本に滞在していたか、あるいは以前から日本に滞在していて、この映画の日本ロケの際に抜擢されたかのどちらかだろう。