備考欄のようなもの

主に、中国語圏の文学・音楽・映画等について記します。

瀬戸内寂聴の元夫と北京

(以下は、原資料にあたっておらず、とりあえずのメモです。また加筆します。)

 徳島に住んでいた頃、地元出身の作家・知識人と中国との関わりについて気になっていた。特に、瀬戸内寂聴(晴美)は、終戦間際に結婚して北京に住んでおり、彼女の文壇デビュー作「女子大生・曲愛玲」など初期小説の数篇は、北京での生活をモチーフとしている。

 日本への帰国後、彼女は夫の教え子と出奔し離婚に至るのだが、彼女自身夫の名を明らかにしていないこともあり、それが誰であるのかずっと知らずにきた。北京の輔仁大学で中国音楽を研究していた、という断片的な知識を除いては。

 だが、急に思いついてネット上を検索してみると、あるブログ記事により、あっさりとそれが誰であるのか分かってしまった。それがこのページ「瀬戸内寂聴の夫だった酒井悌国会図書館副館長」。このページにも紹介があるように、瀬戸内と同様徳島市出身の酒井は、1939年に外務省留学生として北京留学、国立師範大学を経て1944年に輔仁大学専任、1945年に北京大学、帰国後はずっと図書館畑を歩み、上野図書館長、国立国会図書館副館長などを歴任したようである。

 さらに検索してみると、これまで元夫の名は伏せられてきた、というのは自分の思い込みに過ぎず、幾つかの書籍ですでに瀬戸内の元夫として酒井の名が挙げられていることもわかった。

 ・板垣直子『明治・大正・昭和の女流文学』(1967)165ページに酒井の名がある模様。

 ・巌谷大四『物語女流文壇史 下』(1977)193ページに酒井の名がある模様。

 ・川西政明『昭和文学史 中巻』(2001)604-606ページに酒井の名がある模様。

 酒井が輔仁大学の前にいたのが(日本支配下の)北京師範大学だとすると、同校で教鞭をとっていた台湾出身の作曲家・江文也と交流はあったのだろうか。気になるところである。

 輔仁大学には民俗学者の直江広治や中国文学者の奥野信太郎も在籍していた。中国における直江について取り上げた王京『一九三〇、四〇年代の日本民俗学と中国』という本の中でも酒井の名は見られ、日本文学を教えていることが分かる。(中身はこちらで読めます(一番下までスクロール、第四章-3)→ココ)酒井の名は見当たらないが、永井英治「戦中期北京輔仁大学の日本人教員とその戦後-成立期新制大学の教員移動に関する試論」という論文もあり、関係者の回想などの資料も抑えてあるので有益だ(→ここで読めます)。酒井に関する記録もあるかもしれない。

  戦後の酒井の活動には「中国古代音楽史」に関する業績などはほとんど見当たらないが、唯一見つかったのだが、1955年の「京劇今昔話」『読書春秋』6(3)である(図書館畑では立派な仕事をされたようではあるが)。

 ついでながら、「女子大生・曲愛玲」のモデルとなった日本人の同性愛者の女教師についても、誰であるかが見えてきた。恐らく田村総という人。田村は『いきいき老青春(ラオチンチュン)』という本を1990年に上梓しており、自分と中国との関わりを振り返っているようだ。(注文したので詳細がわかり次第補足したい。)

瀬戸内寂聴全集〈1〉短篇(1)

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白い手袋の記憶 (中公文庫)

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寂聴中国再訪

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明治・大正・昭和の女流文学 (1967年)

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物語女流文壇史 下

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昭和文学史〈中〉

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いきいき老青春(ラオチンチュン)

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