備考欄のようなもの

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再び樫尾慶三について、そして朝鮮・台湾のオーケーレコード

2/4のエントリーの(2/6追記)で書いたように、その後事態は急展開して、樫尾慶三について詳しいことがわかった。

詳細については、別途まとめるつもりだが、時間がかかるかもしれない。今回は彼が上海から帰国してから帝国蓄音器に関わるようになる間の話だけ。

 

実は、樫尾慶三自身が略歴を記した「履歴書」のコピーを入手した。それによると、彼は大正十一年五月に上海へ渡航し、レコード会社を運営した後、

「昭和四年六月帰朝しレコード吹込業を営み朝鮮台灣レコードを製作す」

という。そのつぎの項目では

「昭和九年二月帝国蓄音器株式会社を設立し取締役となる」(※引用は、旧字体常用漢字に改め、一部カタカナをひらがなに改めた)

とある。

帝国蓄音器、すなわちテイチクの設立については、その前史がやや複雑で理解しづらいところもあるが、

前回のエントリーでも言及した神戸新聞の記事では、

元テイチクの吹き込み技師溝谷武仁(62)さんによると、九年二月、株式会社として再出発後、花屋敷にあったプレス機五台が奈良に移される。その際、元の所有者である樫尾慶三氏が取締役に、その父か兄?長右衛門氏は監査役に就任したほか同スタジオの製造責任者だった坂本久磨男氏もテイチクに入社、後に工場長・取締役にも就く。五台のプレス機は、合資会社時代の代表を務めた吉川島次氏方の倉庫に納まり、テイチク奈良本社工場の態勢が整うまで、こちらでレコードが製造されたのだという。」

とされている。したがって、樫尾慶三が上海から帰国後、花屋敷に作ったスタジオは、少なくとも株式会社としてのテイチクがスタートする以前はプレス工場も備えていたことが分かる。

 

ここで注目したいのは、樫尾が「朝鮮台灣レコードを製作す」と記している点である。樫尾は大陸のレコード業のみならず、朝鮮・台湾のレコード業にも関わったというのである!いったいどのようなレコードを製作したというのだろうか。

現時点では、全くの仮説にすぎないが、樫尾が製作したのはOkeh(オーケー)レコードではないか、という可能性を示しておきたい。そう想像する理由の一つは、Okehレーベルが、朝鮮にも台湾にも存在したことであるが、それだけではない。

朝鮮におけるOkehレコードについては、朴燦鎬『韓国歌謡史』に関連する記述がある。

「一九三三年一月からは、後に朝鮮レコード界を制覇するオーケーレコードが発売を開始した。社名は"日本オーケー蓄音器商会"京城臨時営業所となっているが、この会社は日本レコード史には名を残していない。同年二月一日付の「オーケーレコード朝鮮盤が新年の太陽のように半島に出現」という新聞広告には「上海・香港を中心に数多くの東西歌盤会社を完全に制圧し、斯界の人気を担っていくオーケーレコードが一枚定価一円という奉仕的価格で朝鮮に出現しました」とある。三六年には帝国蓄音器株式会社(テイチク)に経営権を移譲しその営業所となったが、オーケーの名はそのまま維持し、三七年の二月臨時発売盤から朝鮮でレコーディングするようになった。」(p.130)

上海・香港を中心に数多くの東西歌盤会社を完全に制圧し、という宣伝文句は、まさに上海を中心に活躍し、香港で孫文の講演レコードを録音した、樫尾慶三の活躍を彷彿とさせるではないか。また、テイチクの株式会社化(プレス機の奈良への搬出)が1934年、朝鮮Okehの経営権がテイチクに移るのが1936年、というのも、多少のタイムラグはあるものの、微妙に符合している。 もう一箇所の記述:

「オーケーは大阪の帝国蓄音器株式会社でレコーディングしたというが、高福壽の『歌謡裏面史』によれば、李哲がオーケーレコードを創設するに至った経緯は次のようなものだったという。

 李哲が新聞配達をしている頃、玄松子(ヒョン・ソンジャ)という女性と知り合い、やがて結婚した。東京目白の日本女子大に留学した才媛で、同窓生にテイチクの重役の娘がいた。彼女は、夫の音楽に掛ける情熱を実現させるため、日本に渡って同窓生の父親を説得し、テイチクの朝鮮支社を作るのに成功した。

 金貞九によれば、レコード会社を持つようになった李哲は、日本、それも"帝国"と名のついた会社の出先機関というイメージを嫌って、"オーケー"という名称をつけたのだという。」(p.292)

「テイチクの重役」というのはもしかすると樫尾慶三、長右衛門、または坂本久磨男のことかもしれない、と考えるのは穿った見方にすぎるだろうか。いずれにしてもオーケーレコードが発売を開始する33年1月という時期は、テイチクは株式会社にはなっておらず、花屋敷スタジオはまだ樫尾側に所有権があったのではないかと思われる(この霊媒実験は32年9月)。

初めは樫尾が李哲と組んで始めた朝鮮オーケーの事業が、株式会社化したテイチクが成立し、樫尾が取締役に就任してから、権利や経営がテイチクに移った、と推測することはできないだろうか。

ところで、ここで紹介されている「オーケー」の名称の由来であるが、若干の疑念を挟んでおきたい。なぜなら、この頃台湾にも同じOkehオーケーというレコードレーベル名が存在しており、朝鮮独自にこの名称を決めた可能性は低いのではないかと思われるからだ。

というわけで、次に台湾のオーケーレコードについて確認したい。

從日治時期唱片看臺灣的歌仔戲 上冊【探索篇】』(國立傳統藝術中心、2007)には、台湾のオーケー・レコードについて、以下のように記されている。

「奧稽唱片公司(OKEH):

 1932年に成立した「奧稽」レコードは、もともと「羊標」レコードを経営していた陳芳英が主催していた。この会社は当時の台湾人が経営するレコード会社の中でも規模は最も大きく、発行量も最も多かったが、その発行量と資本は日本人の経営する会社とは比べようもないものであった。

 (中略)「奧稽」レコードは1935年に「日東蓄音器株式会社」に合併され、そのレコード版権も全て移った。」(p.87)

こちらは、テイチクではなくニットー(タイヘイと合併して大日本蓄音器となった)に権利が譲られたことになっている。創立の時期は朝鮮のオーケーとほぼ重なるが、もし両者とも樫尾が関わっていたとすれば、どうして台湾オーケーだけはテイチクに引き継がれず、ニットーに移譲されたのだろうか。台湾側経営者の陳芳英の選択かもしれないし、テイチクは(恐らく樫尾と合流して株式会社化する以前から)「文聲」という台湾のレーベルのプレスをしていたので、オーケーは必要とされなかったのかもしれない。

 

最後に、もう一つ邪推を。もし「オーケー」というレコード会社名が樫尾慶三により付けられたものだとしたら、その意味するところは何だろうか。もしかして「かしおけいぞう」の「おーけい」から採ったのではないだろうか。

お後がよろしいようで。