備考欄のようなもの

主に、中国語圏の文学・音楽・映画等について記します。

張帆逝去



少し古い話になるが、先月22日、歌手で女優の張帆が北京で亡くなった。だが、ネット上のニュース記事はあまり多くない。『北京青年報』は《老演员张帆辞世》というタイトルの記事で、歌手としてよりも女優としての側面に重点を置いている。もちろん記事の中では、彼女が映画女優、テレビ女優、歌手という三足のわらじを履いていた(“三栖明星”)ことは指摘されているが。この記事で一番驚いたのは、彼女が周璇についてインタビューを受けている最中に倒れた、との事実である。そういえば、周璇の命日は50年前の9月22日。張帆はその命日のちょうど一月後に亡くなったことになる。

一方、マレーシアの『光華日報』の記事では、《贺新年原唱者张帆逝世》とされていて、むしろ歌手としての側面が強調されている。当地の華人にとっては、民国期の歌手としての印象の方が強いのだろう。

彼女は1935年、13歳の時に黎錦暉の「明月歌劇社」に加入し、芸能活動を開始することとなった。後に吹き込んだレコードは数多いが、百代唱片公司の廉価盤レーベルだった「麗歌」に吹き込んだ「満場飛」は、中国民謡風味もあるメロディにジャズ的なアレンジと独特のリズムを施したもので、戦時下の上海に三度訪れた服部良一もこの曲を聴いて感心したという。日本の支配下の上海では、『四姉妹』等の映画に出演した。人民共和国になってからは、主に解放軍の「八一電影製片厰」の映画に出演した。『秘密図紙』(1965)のDVDを見ていて、クレジットに彼女の名前があるのを見た時は驚いたものだ。「China Movie Database」によると、他にもいろいろな映画に出演している。学生時代に「中国映画祭」か何かで見た『湘女蕭蕭』(沈従文の原作)にも出演していたとは初めて知った。

なお、張帆の生涯については、ここに詳しく記されている。ただ、彼女が南洋に公演旅行に行った際には、周璇は同行していない。(1935年7月〜36年5月、黎錦暉はすでに歌舞団を離れており、団長は黎錦光、大中華歌舞団名義。)