備考欄のようなもの

主に、中国語圏の文学・音楽・映画等について記します。

李香蘭主演『私の鶯』の上海における上映時期

 満州映画協会と東宝が共同制作した映画『私の鶯』。島津保次郎監督、李香蘭主演によるこの映画は、ハルビンで暮らす白系ロシア人たちに焦点を当て、また服部良一が音楽を担当し、ハルビン交響楽団や同地で暮らす多くのロシア人音楽家が撮影に参加したことでも知られる。だが、この映画の公開は、政治的な事情も絡み、極めて限定だった。

 この映画に関する貴重な先行研究である岩野裕一『王道楽土の交響楽 満洲―知られざる音楽史』では、次のように記している。

[前略]この作品は、意外な場所で、意外な時期に公開されていた。それは、終戦間際の上海である。

 [中略]この[李香蘭の一九四五年六月二三~二五日の]演奏会に合わせるように、六月二四日から三〇日までの一週間、李香蘭主演の『哈爾濱歌女』が平安戯院で封切られていたのだ。(288頁) 

王道楽土の交響楽―満洲―知られざる音楽史

王道楽土の交響楽―満洲―知られざる音楽史

 

  確かに、上海・平安戯院では、1945年6月24日から30日まで『哈爾濱歌女』こと『私の鶯』が上映されている(ただし、同頁の新聞広告のキャプション「1945年6月23日『申報』」とあるのは、6月24日の誤り)。

 渡辺直紀氏の論文「満映映画のハルビン表象─李香蘭主演『私の鶯』(1944) 論」(2017)でも、この新聞広告の日付の誤りを含め、『私の鶯』の上映日時を1945年6月24日から30日までとする説が踏襲されている。

 だが、当時の上海の新聞広告を見れば、 この映画はこの1945年6月24日からの上映以前に少なくとも四回、合計で少なくとも五回上映されていることが分かる。

 本記事では、その五回の上映について整理紹介し、『私の鶯』の上映状況をまとめてみたい。

 現時点で判明している『私の鶯』の最初の上映は、1944年9月2日である。上海で出ていた日本語新聞『大陸新報』8月31日付けの紙面に次のような広告が掲載されている。

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その後、9月2日の紙面にも広告があり、確かにこの日から国際戯院において上映が始まったことが確認できる。広告によると9月8日まで上映が続き、9月9日は「防空日」で休館、9月10日からは1937年の映画『恋山彦』が代わって上映される。

 従って、現時点で判明している『私の鶯』の最初の上映は、1944年9月2日、国際戯院ということになる。これは主に日本人観客向けの上映だったと思われる。

 この第一回の上映から第四回の上映までは、時間的に隣接している。第二回から第四回までの上映は、邦字紙ではなく上海を代表する中国語新聞の『申報』の広告で確認できる。

 第二回上映は、1944年9月11~20日にかけて、静安寺路(現・南京西路)にあった大華大戯院で行われた。『申報』にも『哈爾濱歌女』として広告が出ており、これがはじめての中国人向け上映と言えるだろう。ただし大華はこの時期、中国人向け日本映画専門館となっており、『哈爾濱歌女』の前には阪東妻三郎主演の『滿城風雲』(『恋山彦 風雲の巻』のことか)が上映されており、『哈爾濱歌女』の後には稲垣浩監督の『千里響馬』(『海を渡る祭礼』のことか)が上映されている。

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これは、9月7日に『申報』に掲載された広告。「後天」すなわち明後日からの上映とされているが、実際には2日遅れて11日からの上映となった。国際戯院とのフィルムの引き継ぎの問題だろうか。

 第三回上映は、1944年10月1~7日、霞飛路(現・淮海路)の国泰大戯院(現・国泰電影院)。キャセイ・シアターである。

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ここでも、この映画の前には日本映画『成吉思汗』が上映され、この映画の後には『磯川兵助功名噺』が(『香扇秘聞』として)上映されている。

 第四回上映は、11月3日~6日、杜美路(現・東湖路)の杜美大戯院(後の東湖電影院、現在は営業停止)。ドイツ映画に続いて上映されている。この映画の後に上映されたのは(おそらく1935年フランス版の)『罪と罰』。

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実は、この杜美での上映は、『申報』だけでなく、前出の邦字紙『大陸新報』でも確認できる。下は11月3日の広告だが、同様の広告が6日まで出ている。『申報』では『哈爾濱歌女』だが、こちらでは題名は『私の鶯』となっている。

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基本的には日本人居留者が多く、俗に日本租界と呼ばれた虹口地区の映画館の広告が掲載された『大陸新報』だが、なぜか(旧)フランス租界(建前上はすでに「中国」に返還されている)の映画館である杜美の上映情報だけは掲載されている。杜美でこの映画の次に上映された『罪と罰』の『大陸新報』の広告には「フランス映畫超特作 日本版 罪と罰」と記されており、日本語字幕がつけられていたものと思われる。日本軍占領後の旧フランス租界にあって、日本人向けの映画館となっていたのだろうか。

 『私の鶯』の第五回上映は、岩野氏の『王道楽土の交響楽』でも述べられていたように翌1945年6月24日から30日まで、静安寺路(現・南京西路)の平安戯院で行われている。新聞広告は岩野前掲書にも掲載されているので、ここでは省略する。前回の上映からは七ヶ月以上空いているが、これは岩野氏が言うように、李香蘭のリサイタルに合わせたものである可能性が高い。ちなみに、リサイタルが行われた大光明大戯院と平安戯院は少し距離はあるものの、いずれも静安寺路に位置していた。この映画の前に平安戯院で上映されていたのは、日本のチャンバラ映画と思われる『劍俠復仇記』、この後に上映されたのは榎本健一主演の『老鼠大俠』(原題不明)。

 

以上を整理すると、現時点で確認できた上海における『私の鶯』の上映は、以下の通りである。

  • 第一回 1944.9.2.-1944.9.8.  国際戯院
  • 第二回 1944.9.11.-1944.9.20. 大華大戯院
  • 第三回 1944.10.1.-1944.10.7.  国泰大戯院
  • 第四回 1944.11.3.-1944.11.6.  杜美大戯院
  • 第五回 1945.6.24.-1945.6.30.  平安戯院